小川郷太郎の「日本と世界」

井上は柔道にとってチャンスとなるか

世界選手権で3回の優勝を誇る井上康生氏(33歳)は2009年1月から2011年1月まで日本オリンピック委員会の研修生として英国に派遣された。同国滞在中、井上は英国社会に溶け込もうと相当の努力を払ったようだ。その間、約20か国の欧米諸国をも訪問した。日本に戻って以来、東海大学武道学科専任講師として教鞭をとり、また、御存じの通り男子ナショナルチームのコーチも務めている。オリンピック年でもあり、井上氏の毎日は超多忙である。それでも筆者は先般2時間以上にわたり余人を交えず同氏とじっくり話す機会をもった。懇談後の私の印象は、素晴らしい技量だけでなく賢明さと情熱を併せ持った井上は故国を遠く離れ普段の基準とは違う生活の中に身を投じた経験によって大きな変貌を遂げたのではなかろうかというものだった。世界の中に身を置いたことが、本人自身にとっても、おそらく日本にとってもよい影響を与えたにちがいない。

印象的だったのは、彼が柔道と自分自身について発見したことを率直に語ったことだった。井上にとってのヨーロッパ経験とは、それまでに感じたことはなかった柔道というものがもつ普遍性についての新しい視点ないし発見でもあった。とくに彼は、「世界の中で職業や年齢の異なる非常に多くの老若男女がこんなにも柔道の練習を楽しんでいるなんて!」と驚きを私に打ち明けた。ちょっと驚くほどのナイーブな感想かもしれないが日本人である私にとってはよく理解できるものである。というのも、日本では柔道はフランスほどの大きなインパクトがないからでもある。この経験に刺激を受けて井上康生はより大きな意識を持つにいたる。「こうしたことを見て、また人々に質問することによって、柔道の価値を実感することができた。選手生活をしている間はわからなかったことである」と告白もした。驚くほど誠実な井上の感想であるが、それはおそらく日本や世界の柔道にとっても貴重なチャンスを提供するものである。なぜなら、この認識が自分の将来の道についての意欲を芽生えさせたからだ。彼自身の言葉によると、海外研修中に発見した柔道のこの価値は「世界においてさらに振興させなければならない」ものであり、自身それに貢献したいとの意思も表明した。でもそれは近い将来ではないかもしれない。山下泰裕氏の教え子でもある井上は落ち着いてものを考え、賢明でもある。「私はまだ指導者の道の緒に就いたばかりで、さらにこの道で経験を積まなければならない」と語る。

現時点での井上の関心は当然ロンドンオリンピックに向けられている。しかし彼の思考はもっと高い方向にも向っている。「今日の柔道について言えば、自他共栄の精神を忘れている。一般的に言って競技志向に走り、その他のこと、柔道を学ぶ過程や柔道が我々に教えていることを忘れるようにもなっている。稽古の環境などについて富める国と貧しい国との間に格差が拡大してきている。柔道は優れた選手や柔道大国だけのものではない。優秀な選手や柔道大国は、柔道のより公平な発展のために尽くさなければならない」という。日本の責任に関しては、「日本は柔道の創始国として、より良い柔道の実現ためにより大きな役割を果たすべきだ」と主張する。「畳の上でも精神的な面でも日本は礼節が求めるものについて模範ともなり、また指導性を発揮すべきである。そのためにも日本は人材を糾合し、さらに、国際舞台で活動できる者を養成しなければならない」とも言う。私も同感である。

日本における柔道の問題のひとつに、柔道界の首脳陣はメダル獲得にこだわるあまり柔道の健全な発展のための国際的活動に参画する視点が薄いことである。しかし日本に人材は存在する。経済界、青年海外協力隊やシニアボランティアなどの経験者、その他でも海外での柔道経験や技能を持っている人でこうしたことに参画する意思のある人々もいる。しかし、そういう人たちは現在の柔道界のリーダーたちの視野の中で存在感を得ていない。やや控えめな表現ではあるが、井上氏は人材を糾合する必要性について語るときそうした人々のことを考えている。この点で、日本とフランスが連携したらどうか。井上はそのための将来のリーダーにもなりうるのではないか。それは魅力的な発想でもある