小川郷太郎の「日本と世界」

小川郷太郎の自画像

昭和18年(1943年)静岡市に生まれる。

少年時代はプロ野球巨人軍の捕手になることを夢見て野球漬けの日々を送ったが、中学時代に挫折。心機一転、英語を勉強してアメリカに行くことを目指し、高校時代にアメリカン・フィールド・サービス(AFS)交換留学制度のもとで米国ニューメキシコ州アルブカーキー市のヴァリー・ハイスクールに1年間留学。昭和36年~37年(1961~62年)のことで、日本の高校での受験勉強から離れたアメリカでの生活は、ものの考え方に革新的影響を与えたと思う。

静岡高校、東大法学部を経て、昭和43年(1968年)外務省入省。平成19年(2007年)に退官。40年近い外交官生活のうち、23年間を海外(フランス2回、デンマーク兼リトアニア、旧ソ連、フィリピン、韓国、カンボジア、ホノルル)で過ごし、外務本省では、条約局、経済局、経済協力局、国際情報局、欧亜局に勤務、また、外務大臣秘書官、国際協力機構(JICA)総務部長なども歴任。最後の任務だった「イラク復興支援担当大使」の仕事は、退官後も参与として委嘱を受け、これを続けている。

多様な国や業務を経験し、気付いたり学んだことも多く、それらを踏まえた主張を新聞や雑誌に種々投稿してきた。2008年にはこれまでの体験や思索をまとめた拙著「世界が終の棲み家・新しい日本のかたち」を上梓した。

趣味は、書画、柔道、ジョギングなど。最近は書道に励み、師範試験に合格した。柔道の実力は3段程度だが、海外の各任地でも稽古や柔道交流を続け、「長年海外で柔道の普及に貢献した」ことが認められて平成18年(2006年)に6段を授与された。柔道に関しては、日本がもっと柔道の国際的運営に強くかかわるべしとの主張を展開している(「中央公論」2008年12月号参照)。

性格は、自分では粘り強いと思っているが、幼少より親父に、また長じて上司や妻から、「おまえ(あなた)は頑固だ」と叱られることが多かった。今でも正しいと考えることは実現したいという気持ちは強いが、年を経て結構柔軟になってきていると自己評価することもある。かつては台所に入ることも嫌った封建亭主だったが、デンマークでの男女協働の家庭生活を見て、最近は遅ればせながら家事手伝いにも従事しているのはその好例である。

主な現職は、(株)絆郷代表取締役、 三井住友海上火災顧問、AFS日本協会顧問、NPO法人「柔道教育ソリダリティ」理事など。