小川郷太郎の「日本と世界」
・スポーツと国際化
国際化された柔道の苦悩・家元として発言権強化を 外務省参与 小川郷太郎

■世界に浸透している柔道精神
■試合ルールと柔道の変質
■オリンピック後に新視点で日本柔道の戦略を
■メダルか柔道の国際的経営への参画か
■柔道の国際的運営のカギ:選挙の重要性
■「正しい柔道の復活」を目指し国際審判規定の改正を
■国際活動のための体制強化  

柔道はいまや世界で最も人気のあるスポーツのひとつである。国際柔道連盟への各国からの加盟団体数は199を数え、オリンピックでも各国が鎬(しのぎ)を削ってメダルを狙う種目である。柔道の世界での発展について、発祥地である日本としては、悲喜こもごもの複雑な気持ちがする、というべきであろう。   

◇世界に浸透している柔道精神  
喜ぶべきことは、日本発の柔道が世界の隅々まで実によく浸透していて、多くの場合、少年少女を含めて世界中の人々が柔道における礼儀や規律などを学んでそれを実践していることだ。筆者は大学で柔道を学び、外務省入省後の勤務における世界各地の人々との柔道の稽古や交流を通じて、その浸透度の深さを目の当たりにしてきた。1969年から4年ほど滞在したフランスでは、当時から既にどんな小さな町に行っても柔道場があったし、町の道場には文字通り老若男女が来て柔道の稽古をしていた。留学先のボルドー大学では、アフリカの旧ダホメ(現在ベナン)出身の留学生が黒帯初段を締めて大学の柔道同好会を指導していたが、日本語で、「セイザ(正座)、センセイニレイ(先生に礼)!」などと号令を掛けていた。ちなみにフランスでは「草の根」のレベルまで柔道が楽しまれており、その柔道人口は50万人以上に上る柔道大国だ。  2000年から3年ほど住んだカンボジアは、30年近く続いた内戦や内戦後の混乱を経てようやく達成された平和の時代であったが、残忍なポル・ポト政権時代の大量虐殺で柔道人口も壊滅的に減っていたのを、日本から派遣された青年海外協力隊員の指導の下で若い人を中心に柔道の復活が図られていた。  人口わずか540万人の小国デンマークでも、全国どこに行っても日本武道の愛好者に出会ったが、地方の柔道クラブでも練習の始めと終わりに、小学生もしっかり正座して礼をするなど、単に肉体的側面だけでなく精神的な側面も熱心に学ぼうとしている姿勢に感銘を受けた。柔道が世界的な「スポーツ」になっても、海外では多くの道場に嘉納治五郎師範の額が掲げられ、柔道の伝統的な精神面の鍛錬にも関心を持って励んでいる何百万の人々が存在することを日本の柔道界は忘れず、これを大事にすべきであろう。   

◇試合ルールと柔道の変質  
柔道がこのようにその本質的な面も含めて世界中に浸透していることは日本人として誇りに思うべき事象であるが、他方において、昨年の国際柔道連盟(IJF)の理事選挙であの「世界の山下」といわれた山下泰裕氏が大差で敗れ、アジア柔道連盟(AJF)会長選挙でも人格・識見ともに豊かな佐藤宣践氏がクウェートの候補に大敗を喫するというショッキングな出来事があり、国際的な柔道の経営においては日本が主導的役割を果たしにくくなっている状況にある。  さらに憂慮すべきは、柔道が世界的に発展し国際大会が頻繁に行われるようになった過程で、試合のルールや運営が欧州諸国の主導で変化していった結果、われわれ日本人が大事にしている柔道の本質が次第に変質してきている事実である。  例えば、体重別の導入、「効果」や「有効」のような「技あり」にも至らない軽微なポイント制の採用、試合中に「待て」を連発して「注意」や「警告」を与えるルールなどがある。柔道が国際化しスポーツ化する中で、柔道を分かりやすく面白くするためある程度の変化は止むを得ないものとして受忍する必要もあろう。カラー柔道着も日本国内で反発があったが、筆者はこれは必ずしも柔道の本質に関わるものだとは思わない。それより、細かいポイント制のルールを採用したことなどにより柔道が変質し、時にはレスリングまがいのような様相まで帯びてきた弊害は多くの心ある柔道家の深く憂慮するところとなっている。日本柔道界の首脳陣や指導者層も、その是正に努力をしてきているが、国際柔道連盟の主導権が外国勢の下にあって柔道がオリンピックや世界選手権の重要種目となっているうねりのなかでは、多勢に無勢であるようだ。   

◇オリンピック後に新視点で日本柔道の戦略を  
北京オリンピックが迫る中、日本の「お家芸」柔道でのメダル獲得にかける国民の期待には極めて大きなものがある。日本発祥の武道であるだけに、日本は強いことをほとんど宿命付けられているかのようで、国民の時には過大とさえ思える強い期待のもとで、日本柔道界の指導者も勝てる選手の養成に最大の努力を傾注しているように見える。メダル獲得を目指す選手や関係者の血のにじむような努力には大いにこれを多とし敬意を表したい。  しかし、冒頭に述べた国際化された柔道の功罪を考える時、柔道はこのままでよいのだろうか。オリンピックが終わった後にも、新しい視点も持って少し長期的に今後の戦略を考える必要はないだろうか。そして、もしそうだとすれば、筆者はその戦略目標を、「柔道の本質を取り戻すために日本が主導的役割を果たす」ことに置くべきではないかと思うものである。  この戦略目標を達成するためには、二つの方向での努力が必要であるように思う。一つは、強い選手を育てて正しい柔道で勝つことである。もう一つは、世界における柔道の経営に積極的に参画することである。これまで日本の柔道界は前者の方向に最大の努力を傾注してきたように見える。  今後は後者の方向への努力を抜本的に強化し、軸足を両方に置いて上述の戦略目標を追及することが肝要である。日本らしい「一本」で決めることを狙う正しい柔道で勝つことにより、全日本選手権で適用しているルールの方向に外国を引っ張りやすくなるし、他方において日本が柔道の国際的経営により積極的に参加し発言力を高めることができれば、柔道の国際審判規定や運営を本来の正しい柔道の方向に戻すことに寄与し、もって日本選手が勝つ確率を高めることができるので、双方は互いに良い影響を及ぼし合うということができる。   

◇メダルか柔道の国際的経営への参画か  
もちろんこれらは生易しいことではない。世界の並居る強豪に「一本」で勝つことは至難であるし、世界柔道の経営に影響力を行使するのはIJFで発言権を持つ理事の地位を失った状況では容易ならざるものがある。しかし、いかに困難でも長期的な目標として今から努力を始めなければならないと思う。  メダルを獲得すること、すなわち勝つことは柔道の場合は特に重要であるし、そのために最大限の努力をなすべきであろうが、結果として負けた場合には極端に悲観主義に陥るべきではないと考える。柔道が日本発祥であるとしても世界に普及してからすでに久しい。筆者もフランスなどで柔道を稽古したが、平均的な筋力はフランス人の方が日本人より勝っているように感じる。良い指導者を得て同じくらいの年月の練習をすれば日本より強い外国人選手が出てもおかしくはない。そもそも勝負は「時の運」という要素もある。他のスポーツの例でも分かるように、発祥地の国が常に強いわけではない。悲壮感漂うようなメダル至上主義から、ちょっと肩の力を抜くことも必要だ。  メダル獲得と同等にあるいはそれ以上に大事なのは、柔道の国際的運営に積極的に関与することである。この面でのわが国の努力が十分でなかったことから、日本としては当面はむしろこちらに重点を置いた態勢強化が必要である。   

◇柔道の国際的運営のカギ:選挙の重要性  
近年日本のスポーツ界は多くの種目で世界的選出を輩出するようになっているが、大概どのスポーツでも国際的運営においての日本の発言権は非常に弱いことが指摘されている。発言権強化は我が国の国際スポーツマネージメントにおける共通の課題であり、日本全体としてより包括的に考えるべきと思われる。  柔道の場合、「正しい柔道の復活」を目指して国際的運営への関与を強化するための具体的な当面の目標として、まずIJFやAJFなどにおける「議席(理事や会長等の役員ポスト)」確保と国際審判規定の改正が挙げられる。  選挙は、日本国内の議員選挙でも何年も前から準備をする大変な作業である。国際的選挙も世界を舞台にするという点で、同様あるいはそれ以上に困難で大規模な準備が必要である。政府のレベルでも、例えば国連の選挙では、1年以上前から何カ月もかかって全世界に継続的に支持要請の活動を繰り返すのが実情である。  約200カ国の連盟が加盟しているIJFなどでも権謀術数が渦巻いており、こと選挙になると一層その激しさが増す。選挙は昨年終わったばかりだが次回を目指して、日本も出遅れず今から考えて行動することが重要である。選挙にはあらゆる人材を糾合し長い期間をかけて全世界を対象に全力を尽くして戦う必要がある。もちろん今からあからさまに選挙を名目に運動するというのではなく、試合の運営やルールについて日本の主張を明確にすることや志を同じくする他国の代表との協議・連携を強めること、あるいは開発途上国の柔道連盟に対し、さまざまな支援や協力を増強することなどを通じて、わが国の存在感を高めることを目指すべきである。より選挙が近づいたら、特定の候補者を内定してその人の活動を目立つものにしていくと同時に多くの国への非公式の根回しを開始する必要がある。   

◇「正しい柔道の復活」を目指し国際審判規定の改正を  
国際審判規定の改正も「正しい柔道の復活」に不可欠である。現在の審判規定については、最近「効果」をなくす方向にあるなど改善の動きも見られるが、まだ依然として柔道の本質を変えるようなものも含まれており、我が国としては「家元」として現存するルール上の問題点などを繰り返し公の場で明確に指摘するべきである。  柔道着の問題もこの関連で重要だ。こうした点で正論を国際的なスポーツ誌などに繰り返し発表することも効果があろう。正論を繰り返し唱える一方で、同じ考えに立つ国や人々と連携を強める働きかけも不可欠である。フランスや韓国、あるいはロシアにはそういう人々がいるであろう。  まだ体重別の廃止は現時点では難しいかと思われるが、それ以外の点で例えば全日本柔道選手権の審判規則や運営方法を国際的に主流化(メインストリーム化)することを目指すのが有益かもしれない。筆者も最近、全日本選手権を見た外国の柔道家から「なるほど日本のやり方のほうが良い柔道につながりますね」との評価を聞いたことがある。   

◇国際活動のための体制強化  
世界を相手にこうした活動を実行するためには、多くの人材の糾合と予算の確保が不可欠である。現状ではそれは即座にはできないが、オリンピック後にその方向に着手し、ある程度の時間をかけて全柔連国際部の抜本的陣容強化を図ることが必要になる。国際的活動には英語などの外国語能力や柔道に関する経験や知識が必要で、国際経験も役に立つが、三拍子そろった人材はなかなか見つからないかもしれない。  しかし、我が国の国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊員やシニアボランティアで海外の途上国で柔道を指導した経験のある人は少なくない。そうした経験者を発掘して活躍してもらう手もあろう。柔道の経験に乏しくても語学力に優れ外国経験があり、柔道について関心があれば学習することによって国際的柔道マネージメントに参画することは可能であろう。要するに、広く人材を柔道界内外から集めることが望まれる。  国際的活動を活発に展開するには予算が必要になる。予算がないから活動できないのではなく、活動するための予算をどう確保するかの発想で臨むことが肝要で、スポンサー企業の力も借りながら財政基盤強化についても柔道界内外の知見や人材を求めることが有益である。  正しい柔道の復活を目指す国際柔道経営への参画のための体制作りをオリンピック後に早急に始めるべきである。容易ではないが、柔道の家元として日本の発言権を強化するためやらなければならない戦略であり、政界、経済界の協力も得て、オールジャパンで取り組む必要がある。

小川郷太郎(おがわ・ごうたろう) 外務省参与(イラク復興支援担当大使)、三井住友海上顧問。 1943年静岡市生まれ、68年東大法学部卒業後外務省入省。以後、国際協力事業団(JICA)総務部長、在ホノルル総領事、在カンボジア大使、在デンマーク大使、イラク復興支援担当大使等を経て、2007年外務省退官。