小川郷太郎の「日本と世界」

韓国併合100周年総理談話を支持する

8月10日、菅総理は韓国併合100周年の機会に談話を発表し、日本がちょうど100年前、韓国を併合し35年にわたり植民地支配をしたことに対し、日本の総理大臣として改めて「痛切な反省と心からのおわび」の気持ちを表明した。おわびの趣旨は、終戦50周年の1995年に表明された当時の村山総理談話のラインに沿っている。これに対し、一部の与野党、識者、国民から反対論が展開された。反対の論拠は、この表明によって補償問題が再燃する懼れがあることや内閣が変わるたびに謝罪するのは国益を害する(某民主党議員)ことなどが挙げられている。
私は、総理の談話を強く支持する。補償要求が再燃される懸念は村山談話のときも同じであって、今度の菅談話が補償問題は日韓基本条約で決着済みという日本の立場を替えるものでない限り新たな問題を惹起することはない。再度の謝罪が国益を害するとの見解は村山談話に反対する人々の考えに沿うものであるが、こうした人々は植民地統治によって受けた朝鮮半島の人々の苦痛を理解しようとしない人達であって、村山談話や今回の菅談話に反対する言動こそが我が国の国益を害するものである。第2時大戦末期に起こったソ連による日本人のシベリア抑留に対して日本人はソ連(現在のロシア)を恨んでおり、謝罪を求める立場でもある。人間はだれも皆同じ感情があるので、被害者の気持ちを加害者側が慮ることは重要である。過去の帝国主義の時代などに起こったことに国家が一々謝罪すべきではないとの考えもあるが、現代はグローバル化した国民外交の時代である。国民間の心理的関係が良くないところに友好は成立しない。
そういう意味で、今回の総理による談話発出は正しい行為であり、内容的にも誠意を感じさせるものはあるが、次のふたつの点で不十分だったと考える。
ひとつは、この談話が北も含めた朝鮮半島全体に対する総理の認識であることを明確にするべきあった点だ。日本の植民地統治の内容が南と北で異なったわけではないことから、日本の首相としての気持ちの表明は、承認、未承認国で分け隔てるべきでない。むしろ北をも対象とすることで、外交関係のない北に向かって声をかけることにもなる。
もうひとつは、今次談話が単に総理の認識表明として終わるのではなく、改めてこうした考え方が国民全体の認識にまで高まるよう政府が努力することを総理が決意してほしかった。筆者は、戦後50周年の機会に国民の歴史認識を深めるため「歴史博物館」を建設すべきとの主張をしたことがある(「中央公論」1994年11月号)が、今でもその考えは変わらない。日本の問題は、近現代の歴史認識が国民の間でまちまちであり、その主要な原因がこの期間に日本が関わった歴史的事象に対する国民全体の知識不足にあることだ。本来良好な日本の戦後外交が、しばしば歴史問題を巡る近隣国との摩擦で足を引っ張られ、近隣国による日本非難が第三国の日本観を傷つける結果ともなっているのは、こうした知識の不足に伴う国民レベルでの歴史認識の不確かさに起因すると考えるからである。
韓国外交通商省スポークスマンの論評にも「国民の認識」の重要性に触れている